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思想は一つの意匠であるか、という話

思想は一つの意匠であるか

 

鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで

ひとつの思想を歩ませながら

佛は蒼明の自然を感じた

どんな瞑想をもいきいきとさせ

どんな涅槃(ねはん)にも溶け入るやうな 

そんな美しい月夜をみた。

 

「思想は一つの意匠であるか」

佛は月影を踏み行きながら

かれのやさしい心にたづねた

 

萩原朔太郎の詩である。

 

僕がこれを初めて読んだのは中学生の頃であったと思う。

いま現在も朔太郎や日本文学に対しては門外漢であるのだが、「思想は一つの意匠であるか」という言葉だけは心に残っている。

 

この言葉を思い出す度に僕は自戒の念を受けるというか、どうしようもなく無力であることを自覚する。

一般的な思想が一つの意匠であるならば、僕の思想はコラージュののようなものである。

 

思想のコピーのコピーのコピー。

ハイカルチャーメインカルチャーサブカルチャーという不等式が万物に適用されうるとは思わないが、思想の流れにおいて(程度はさておき)こうした流れがあるとしよう。

思想が下流へ向かうに連れて恣意的な抽出が行われ、そこから更に恣意的な抽出が行われたもの。

これらをコラージュしたものがオタク文化的なモノに傾倒していた僕の持っている思想であり、全くもって意匠ではないではないか。

 

当然、文学をはじめハイカルチャー的なものに触れることがないわけではないが、僕のモノを感じるときに持っている視点は明らかにオタク文化から養われたものである。

この悲しい視点はハイカルチャーに触れる上で明らかに排他されるべきものである。

 

だから僕は何かを考え、述べるとき必ず自分に言い聞かせるのだ。

「思想は一つの意匠であるか」と。