正解するカドについて

単純に、野崎まどファンとしての『正解するカド』についての感想を書きたいと思う。

 

僕にとって野崎まどはこれまで、強い現実性、もしくは現実性の先にくる現実性の中に、「超越者」的な完全体が現れる作品を描いてきたように思われる。

 

野崎まど、または想定された読者のとって「超越者」とはおそらく何かを完成させる者である。

これが『正解するカド』の中では異邦存在であるのだが、彼らは一様に「進歩」を求める。

現実と進歩と幸福、または"最初から在るもの"である統一体における進歩と幸福。

進歩は幸福なのか。それの与えられ方はどうか。それは統一体におけるそれぞれの自己から達成されるものなのか。進歩を与えられることは正しいのか。他者が提示する進歩は正しいのか。その正しさは個人的なものか、統一体としてのものか。

 

完全な個人的意見ではあるが、野崎まど作品に見られるのは徹底的な「利己的遺伝子」的思想に対する肯定である。

我々が失ってしまった「大きな物語」における主語を生物学的なものにおいて見出すこと。それが彼の求めていることに近いのではないかと僕は思うのだ。

 

ドイツ・イデオロギーにおいて、

 「利己主義と同様に献身もまた一定の条件下では個人を自己肯定するために必要な形式である。」

という言説があるが、それはまさにドーキンスが提唱した利己的遺伝子における論説に近いのではないだろうか。

 

野崎まどの作品においてこの利己的遺伝子的献身は、超越者の助けを借りながら”自覚”として示されることが多いように思われる。

この"自覚"は救済への第一歩である。

 

確かに『正解するカド』においてはアニメーション的演出を意図したかのようなシーンが往々にして見られる。

しかし、最初から最後まで、最も統一されているものは"自覚"を促すことである。

我々は求める。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのかを。

正解するカド』のタイトルのように、我々に求められるものは正解である。

ただ、我々はその前に自覚しなければいけない。

現実を、現実の先にに来る現実性を。それ以上に現実の先にくる大いなる現実性の中の変容を。我々は自覚するところから始めなければいけない。

 

愛、同情、自覚。我々は復活を果たさなければいけない。

これは宗教的に聞こえてしまうかもしれない。そういった誤解でもいいのだ。

私は求める。救済を。復活を。

我々が進むための手段を彼は提示してくれているのではないだろうか。

"進歩"の手段として現実の自覚を促す。僕は野崎まど作品にこう感じているのだ。僕の読み間違いでも、誤解でも、自意識から生まれた誇張でもいい。

 

彼は僕が欲しいものを物語として与えてくれるのだから。