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お泊まり恋人ロリータ 感想続き

以前書いた感想に何故かそれなりにアクセスがあって、絶対求められてた感想じゃないよなぁと思いながらもまた似たような感想の続きを書きます。

日記のようなものなので仕方ありません。

 

最初に在るもの。原子や粒子の話になると思い出すものがありいくつか文章を挙げてみます。

 

まずは、チェーホフ『かもめ』において、「デカダン主義者」であるトレープレフの演劇に対するメドヴジェンコの言い返しです。

「誰も精神を物質から分離する根拠を持ち合わせていない、なぜなら、おそらく、精神そのものが物質の原子の総体だからだ。」

 

次にトルストイの晩年の日記にはこうあります。

「私達はみんな、私達がやがてそれになるような、別の、より高い本質の粒子であるとなぜ予想することが出来ないのか(中略)思うに、空間と時間を持つものとして私が知っている全世界は、私の人格の、私の意識の産物なのだ。」

 

後者の文章は日記の全文としては甚だ思い違いであるなどという批判も受けていますが(日記の文章に甚だ思い違いであるとケチを付けられるなど偉人も大変です。)両者に共通するのはキリスト教、正教的な精神の不死性や救済に対する考えが宿っているところではないでしょうか。

キリスト教の「救済」において必要なのは不死性に他なりません。

その不死性が肉体的なのか、精神的なのか、”心”なのか(精神と心の関係性については今回言及しません)はたまた”個人的救済”であるのか。

文豪たちがそれらの問題について思考するには人間を半分に、そのまた半分にしていった先。最初に在るもの。粒子ようなものにたどり着いたのです。

 

 

前置きが長くなりました。

この「ロリータ」シリーズに対して我々は”救済”を求めます。

その救済を求める作品において、最初に在るもの、”粒子”についての言及がなされると言うのはおそらく自然なことなのでしょう。

キリスト教の思考では救済や不死性において、人間の”利己主義”的な側面―性の感情―から解放し、無性の、無定形の、天使のような生き物へとたどり着かせる。

こういった思考は教会の通俗主義によって簡略化されうるので、更に新しいイスラム教ではより通俗的になり「楽園」において敬虔の度合いによって美女たちと感性的快楽を得られるようになるのですが、このシリーズにおいてはさらに”現代的”に進歩してるのではないでしょうか。

 

傷ついた、または無垢な少女と、傷ついた、または空っぽの大人。

それが”だめな、理想の恋をする。”

これ以上の救済がどこにあるというのか。

”行為”の中で”救済”されていることがいくらでも確認出来るのです。

好きだと思って、好きで、お互いが幸せになる方法だけを考えて。

これこそが、僕が求めている救済なのです。

 

僕が言いたいのは一つだけです。

とかく、僕がこのゲームをプレイしているときは救済されている。

そういうことです。