百合について書くぞ、おい

つぼみとひらり、が休刊して早数年、百合姫は月刊になり自称百合漫画雑誌として突き進んでいます。

百合姫はどんどん長期連載作品を増やし、僕の思う”百合原則”からどんどん外れていっているのです。

その愚痴を少々書き綴ります。

 

まず、僕が思う(僕が好きな、になってしまうかもしれませんが)百合漫画の原則についてお話させてください。

王道百合漫画には以下の原則があるべきだと考えています。

もちろんこれから外れる作品として邪道百合漫画が存在しますが単純化するためそれらは省いて考えます。

・女の子同士の恋愛が描かれる。

・読者は男を想定している。

・男が登場しない(後述しますが男と関係のある女の子同士の恋愛漫画は百合漫画とは別に考えられるべきだと思います。)

・女の子同士の恋愛の中に同性であることの葛藤、恥じらい等が描かれている。

・”付き合う”という関係性の成立物語である。

・主人公の心理描写を描く部分が大きい

 

これらの原則をすべて満たそうとすると基本的には”付き合う”という結末が用意されているため、絶対に終わりの存在する物語となり、長期連載には不向きです。

つまり、百合姫の月刊化≒作品の長期連載、単行本化と目的とした動きとは相反することになります。

 

また、上記の原則を考える上で根底にあるのは百合作品というのは主人公の追体験や主人公に対する感情移入を目的としておらず、単に見るもの、読むものであるという点です。

もちろん感情移入が全く出来ないというわけではなく、主人公の心理描写に読者は共感を得る部分もあるでしょうが、それは自分自身ではないという前提有りきのものになります。

これらはまんがタイムきらら作品でも同様ですが、読者は自分の生活圏内に”物語”を求めていないのです。

百合漫画の物語は自分自身の世界に介入してはならないし、自分自身(男)も百合漫画の物語に介入してはならないのです。

 

これらの原則を押さえていた百合漫画雑誌は「ひらり、」のみであり「つぼみ」は長期連載や作家の裁量が大きかったように思えます。

 

そして百合姫についてはお分かりかと思いますが、長期連載、男の介入、関係成立よりも関係ありきでの物語の進行、というように三誌時代の百合からはズレが生まれているのです。これはゆるゆり以降の一迅社が一般的な商業主義に走った結果であり、三誌時代の百合作品というのはもはや同人市場でしか入手が難しくなってしまったのです。僕はこのことと、百合姫以降の自称百合オタクたちの言動に憤りを感じています。

 

「ひらり、」を読まずに百合オタクとなった彼らには百合の”原型”というものがなく、百合作品の中のシーンを切り取ることが容易です。

百合は定形の中で確固とした”物語”であったから百合であったのにワンシーンから”百合”を生成することが出来る彼らは、一般作品のシーンを切り取り”百合”作品として捉えその作品のファンからはバッシングを受け、百合原理主義者からは蔑まれるのです。

 

百合は定形の物語の中に存在するものであり、シーンで捉えられたものは百合になりえないのです。

 

僕個人の考えですが。