人を許した回数を数える話
ガンスリンガー・ガールという漫画がある。
”義体”に改造された少女がテロリストと戦うお話だ。
”義体”に一人、ヘンリエッタは組織に、そして愛情(設定としては普通の愛情とは違うけれど)を抱いている担当官のジョゼのために作った死体の数を数えている。
ジョゼに貢献できていて、自分は見捨てられないであろうことを自分の中で確認するためにだ。
僕は、人を許した回数を数えている。もちろん僕はヘンリエッタと違って明確な回数を覚えているわけではないけれど。友達に貢献できていて、見捨てられないであろうことを確認するために。
卑しいことだと思う。
ヘンリエッタはジョゼに貢献する方法が人を殺す以外ない。
でも、僕は許す以外にも見捨てられない方法があることを知っているし、友達とは見捨てる見捨てないの関係ではないなんてことは十分に分かりきっているのだ。
”許す”ことで自分が苦しんでいる時が一番幸せなのだ。
自分が苦しみに耐えることが”許された”気分を味わう手段として一番手っ取り早いと感じてしまっている。
僕は自分が、自分の存在が許されるために人を許す。
”許された”人は僕のことをやさしいという。
体面上誰にでも優しい人間が出来上がる。
人間の善悪は思想によってではなく行動によって決められるべきだと誰かが書いていたし、これでいいのだ。
夏はひっそりと過ぎ去った。
暖かいというだけでは物足りない。
楽しい夢がかなえられるとしても
それだけでは物足りない。
善も悪も明るく燃え上がる。
それだけでは物足りない。
生はわたしをやわらかく包んでくれる。
幸せというだけでは物足りない
葉は焼かれず、枝も折られない。
さわやかというだけでは物足りない。
きっと、そういうことなんだ。
僕もついにメンヘラになってしまった。